導入
父が亡くなり、遺産の中に築古の賃貸アパートが残っていた。
兄は「父が大切にしていた物件だから、自分が引き継いで残したい」と言う。一方、妹は「大規模修繕や借金を考えると、売却して母の介護費にした方がいい」と考えている。
こうした相続では、話し合いがすぐに「売るか、残すか」という対立になりがちです。
しかし私は、最初にその二択を決めるべきではないと考えます。
まず確認すべきなのは、そのアパートが本当に家族にお金を残してくれる資産なのか、それとも今後大きな支出を生む資産なのかです。
相談事例
父が85歳で亡くなり、相続人は82歳の母、54歳の兄、49歳の妹の3人です。
父は8戸の木造アパートを所有していました。現在は築34年、8戸中6戸が入居中です。
家賃収入は月約39万円ありますが、ローン残高は約2,200万円。さらに、3年以内に屋根・外壁・給排水設備など700万~1,000万円規模の修繕が必要になる可能性があります。
兄は父の入院中から物件管理を担い、「自分がアパートを単独相続したい」と主張しています。
しかし、兄が依頼した不動産会社の査定は約3,000万円、妹側が依頼した会社では4,500万~5,000万円程度。
評価額には約2,000万円もの差があります。
さらに母は要介護2で、年金だけでは毎月の生活費が不足しています。今後施設へ入る場合には、さらに大きな費用が必要になります。
この問題の本質
私は、この問題の本質は「兄にアパートを渡すか、売却するか」ではないと考えます。
本当に確認すべきなのは、次のような点です。
- 現在の家賃収入はいくらか
- ローンはいくら残っているか
- 空室が今後増える可能性はないか
- 大規模修繕はいくら必要か
- 敷金など将来返還するお金はいくらあるか
- 父死亡後の収入と支出は正しく管理されているか
- 兄の立替金はいくら事実として確認できるか
- 兄が取得するなら代償金を払えるのか
- 母の今後5年・10年の生活費と介護費はいくらか
- 母が遺産分割の内容を理解して判断できる状態か
ここを整理しないまま結論を出すと、「父の遺産を守ったつもりが、母の介護資金を失った」ということにもなりかねません。
よくある失敗
1.毎月黒字だから「良い資産」と考える
家賃が月39万円入り、ローンが18万円なら、一見すると利益が出ています。
しかし不動産では、月々の収支だけを見てはいけません。
今後700万~1,000万円の大規模修繕が必要になり、空室リフォームにも150万円程度かかる可能性があります。
私は、毎月いくら残るかではなく、5年後・10年後まで含めた累積キャッシュフローを確認します。
2.父の「残してほしい」という言葉だけで保有を決める
父の希望は大切です。
しかし「できれば残してほしい」という言葉と、「赤字になっても、母の介護費を削ってでも持ち続けてほしい」という意味は同じではありません。
父の思いは判断材料の一つです。
最終的には、今生きている母の生活、兄の返済能力、不動産の経済性を並べて考える必要があります。
3.兄の管理負担を無視する
兄は父の入院中から、家賃確認、入居者対応、水漏れ修理、税理士との連絡などをしていました。
「どうせ相続人なのだから当然」と切り捨てれば、兄の不満はさらに強くなります。
一方で、管理をしてきたからといって、アパートを安い価格で取得してよいわけでもありません。
私は、管理への貢献と不動産そのものの評価を分けて考えます。
4.査定額の平均を取れば公平だと思う
3,000万円と5,000万円の査定があったから、4,000万円にすれば公平、というものでもありません。
査定の前提が違えば数字は大きく変わります。
入居者付きで売るのか、収益性を重視するのか、土地価値を見るのか。
私は、数字そのものより「なぜその金額になったのか」を確認します。
5.母の判断能力が低下する前に急いで署名してもらう
母には軽度認知障害があり、「お兄ちゃんに任せればいい」と話すことがあります。
だからといって、「今のうちに遺産分割を終わらせよう」と急ぐのは危険です。
重要なのは、母が何に署名するのか、その結果どんな財産を取得し、どんな負担を負うのかを理解できているかです。
私は、速さよりも理解の確認を優先します。
私ならどう考えるか
私なら、まずアパートを一つの「賃貸事業」として見ます。
父死亡前後の家賃、ローン、税金、修繕、敷金、空室、兄の立替金をすべて帳簿にします。
次に、建物診断を行い、今後必要になる修繕費を把握します。
そのうえで、「今売ればいくら残るか」と「10年持ち続けたらいくら残るか」を比較します。
同時に、母についても5年・10年の生活費と介護費を計算します。
この二つを並べて、初めて次の3案を比較します。
- 家族で保有を続ける
- 兄が単独取得する
- 第三者へ売却する
最善策
私は、「残す」「売る」という結論より先に、判断材料を整えます。
兄が取得したいなら、適正な評価額を出し、他の相続人へ支払う代償金を本当に用意できるのか確認します。
ローンだけでなく、将来の修繕費まで負担できるかも見ます。
売却するなら、ローン返済、税金、仲介費用などを差し引いた後にいくら残るのかを確認します。
保有を続けるなら、誰が管理し、修繕積立をいくら行い、収支をどう報告するのかまで決めます。
重要なのは、父のアパートを残すことではなく、アパートを残した結果として家族の生活を壊さないことです。
なぜ法律だけでは解決できないのか
法律上の相続分を計算するだけなら、それほど難しくないかもしれません。
しかし築古アパートには、将来の修繕、空室、入居者対応、借入という時間軸があります。
さらにこのケースでは、母の介護という別の時間軸も同時に進んでいます。
兄には「自分が父の不動産を守ってきた」という思いがあります。
妹には「母の生活資金を確保したい」という思いがあります。
どちらかを悪者にすると、数字の話が家族への貢献度を争う話へ変わります。
私は、感情を否定せず、数字だけは第三者化して整理します。
実務上のチェックポイント
- アパートの登記内容
- ローン残高
- 借入契約
- 全戸の賃貸借契約
- 現在の家賃
- 空室期間
- 敷金・保証金
- 家賃滞納
- 過去5年の収支
- 父死亡後の収支
- 兄のATM出金
- 兄の立替金
- 立替金の領収書
- 過去の修繕履歴
- 建物診断
- 大規模修繕見積り
- 複数の売却査定
- 収益物件としての評価
- 土地そのものの価値
- 売却時の手取り額
- 兄の代償金支払能力
- 兄自身の住宅ローン
- 母の預金
- 母の年金
- 現在の介護費
- 施設入居時の費用
- 母の意思理解の程度
- 相続税申告の期限
まとめ
築古アパートの相続では、「不動産を持っている=資産がある」とは限りません。
家賃収入があっても、借入、大規模修繕、空室が重なれば、将来大きな現金支出が発生します。
私は、まず賃貸事業の数字を整理します。
次に、母の生活と介護に必要なお金を整理します。
そのうえで、保有、兄の単独取得、売却を比較します。
短期・中期・長期を分けて考える必要があります。
重要なのは、誰が父の思いを一番理解しているかではありません。
父が残した財産を使って、これからの家族の生活をどう守るかです。
私は、「売るか残すか」を決める前に、まず数字を見える化することが最初の一手だと考えます。
本記事は架空の事例をもとにした一般的な実務検討用情報です。実際の遺産分割、賃貸不動産、借入、寄与



