導入
母が亡くなり、築46年の賃貸併用住宅が残されました。
建物には無職の弟が住み、複数の入居者も生活しています。ところが、相続の手続を始める前に、賃貸室の一つで高齢の入居者が亡くなっていることが分かりました。
発見まで時間が経過しており、特殊清掃、遺品、臭気、下階への影響が問題となっています。
さらに調べると、建物には漏水、外壁の浮き、古い電気設備、耐震性、アスベスト、私道、境界、敷金、借入れなど、数多くの課題がありました。
母の遺言には、「土地と建物は長男に残し、家賃で生活させたい」と書かれています。
しかし、その弟には賃貸管理の経験がなく、長く無職の状態が続いています。
私は、この問題で最初に決めるべきなのは、売却するか、弟へ渡すかではないと考えます。
最初に行うべきなのは、人命に関わる危険を止め、相続財産と債務の全体を確認し、どの選択肢も失わない状態を作ることです。
相談事例
相談者は54歳の女性です。
母が所有していた賃貸併用住宅には、住居6室と元店舗がありました。母は長男である弟と同居しながら、家賃収入で生活していました。
母の死後に確認すると、満室時には月約82万円あったはずの家賃は、空室や滞納によって月約43万円しか入っていません。
その一方で、ローン返済、管理費、保険、税金、共用部の光熱費、修繕費が発生しています。
さらに、次の負担も判明しました。
- 修繕ローン約1,850万円
- 入居者から預かった敷金約380万円
- 固定資産税等の未納
- 特殊清掃と原状回復費用
- 外壁や漏水の緊急修繕
- 私道と隣地境界の問題
- 孤独死した入居者の遺品
不動産会社からは、現状のまま4,500万円で買い取るという期限付きの申出もあります。
姉は売却を主張し、弟は母の遺言どおり建物を取得したいと主張しています。
この問題の本質
私は、この問題の本質は「遺言を守るか、売却するか」という二択ではないと考えます。
本当に整理すべきなのは、次の問題です。
- 建物を安全に使用できるか
- 入居者の生活を継続できるか
- 家賃収入で借入れと修繕費を払えるか
- 弟に賃貸経営を継続する能力があるか
- 相続放棄を含む選択期限を失わないか
- 孤独死した入居者の遺品を誰が処理できるか
- 売却価格が適正か
- 弟の住居と生活を別の方法で確保できないか
不動産は価値のある資産に見えても、管理責任、修繕義務、借入れ、敷金返還、税金を伴います。
現金だけを見てプラスの相続と判断するのは危険です。
よくある失敗
1.期限付きの買取価格へすぐ飛びつく
老朽化した建物を早く手放せるなら、4,500万円の申出は魅力的に見えます。
しかし、境界、私道、再建築条件、入居者、修繕費を確認しないまま売却すれば、本来より安い価格で手放す可能性があります。
また、「現状有姿で買う」と言われても、売却前に説明すべき事実や、入居者への対応がなくなるとは限りません。
私は、売却方針と、この買主へこの価格で売る判断は分けて考えます。
2.遺言どおり弟へ渡せば生活が守られると考える
母は、弟に建物を残し、家賃で生活してほしいと願っていました。
しかし現実には、弟は帳簿管理、家賃回収、入居者対応、修繕判断を行えていません。
赤字や老朽化を抱えた建物を渡せば、弟へ資産を与えるのではなく、借入れと管理責任を背負わせることになります。
遺言を形式どおり実行することが、母の本当の希望を実現するとは限りません。
3.孤独死した入居者の遺品をすぐ処分する
室内の臭気や汚損が深刻であれば、早く片づけたいと考えるのは当然です。
しかし、入居者が亡くなったからといって、室内の現金、通帳、写真、仏壇、家具が貸主の物になるわけではありません。
相続人、遺言、残置物処理に関する契約の有無を確認する必要があります。
特殊清掃に必要な衛生対応と、財産としての遺品処分は分けて進めます。
4.敷金を母の預金として分けてしまう
母名義の預金が約1,150万円あっても、全額が自由に分けられる財産とは限りません。
預金の中には、入居者へ将来返還する敷金、未払工事費、税金、ローン返済、清掃費、修繕費に充てるべき部分が含まれている可能性があります。
遺言に「預金は娘二人へ」と書かれていても、先に債務と管理資金を確認する必要があります。
5.相談者が自分の預金で建物を支え続ける
相談者は、母の医療費、修繕費、弟の生活費など約137万円を立て替えています。
家族を見捨てたくないという気持ちは理解できます。
しかし、その気持ちのまま支出を続ければ、相談者自身の住宅ローン、子どもの教育費、夫婦の老後資金が失われます。
「次女は長男を助けてください」という遺言を、無期限の金銭負担と解釈すべきではありません。
私ならどう考えるか
私なら、問題を次の順番で整理します。
1.建物内の安全を確保する
外壁、共用階段、漏水、電気設備、臭気など、人命や健康に関わる部分を確認します。
危険な場所は立入制限を行い、写真、動画、業者の所見を残したうえで、被害拡大を防ぐための応急措置を行います。
2.弟の安全を確認する
弟は母を失い、「自分も消えたい」と発言しています。
この発言を相続交渉の材料として扱ってはいけません。
現在も死にたい気持ちがあるのか、具体的な準備があるのか、食事や睡眠、飲酒の状態はどうかを確認します。
差し迫った危険がある場合は、不動産より先に弟の安全を守ります。
3.相続の期限を確認する
母の死亡から6週間が経過しています。
債務や保証の全体が分からないまま時間が経過すれば、相続放棄等の選択肢を失う可能性があります。
調査に時間が必要であれば、判断期間を延ばす手続も含めて期限を管理します。
4.建物の収支を作り直す
過去の満室想定ではなく、現在の入金額を基準にします。
家賃、滞納、ローン、保険、税金、管理費、修繕費を一覧化し、今後5年、10年の収支を試算します。
弟の生活費を家賃から出せるかではなく、建物自体が持続可能かを確認します。
5.保有・売却・放棄を比較する
私は、次の3案を同じ表で比較します。
- 建物を保有し、管理を外部へ委託する案
- 建物を売却し、弟の住居費を別に確保する案
- 債務超過等の場合に相続放棄を検討する案
各案について、相続人が負担する金額、弟の住居、入居者対応、10年後の状態を比べます。
最善策
最善策は、建物の安全と入居者対応を暫定的に管理しながら、最終売却や弟への移転を保留することです。
同時に、次を確認します。
- 自筆証書遺言の状態と必要な手続
- 母の借入れ、税金、保証債務
- 敷金と家賃の管理状況
- 孤独死した入居者の相続人
- 特殊清掃と遺品処理の範囲
- 私道、境界、越境、建替え条件
- 建物の緊急・中期・長期修繕費
- 弟の生活能力と住居の代替案
- 売却時の実際の手取り額
いま最優先すべきなのは、高く売ることでも、遺言どおり渡すことでもありません。
事故と損失を広げず、相続人が比較して選べる状態を残すことです。
なぜ法律だけでは解決できないのか
法律上、弟が遺言によって不動産を取得できるとしても、弟が建物を管理できなければ生活は守れません。
相続放棄ができるとしても、弟の住居や入居者の安全が自動的に解決するわけではありません。
建物を高く売却できても、弟が突然住居を失い、精神状態を悪化させれば、家族全体の生活再建には失敗しています。
反対に、弟を守るために建物を残し、相談者が修繕費を払い続ければ、相談者の夫婦関係や老後資金が壊れます。
重要なのは、誰が正しいかではなく、これからの生活を守れるかです。
実務上のチェックポイント
- 外壁、階段、漏水、電気設備の危険度
- 建物の耐震性とアスベスト
- 全入居者の契約書、家賃、敷金、保証人
- 孤独死した入居者の遺品一覧
- 残置物処理に関する契約の有無
- 母の預金、借入れ、税金、個人保証
- 相談者の立替金と領収書
- 私道持分、通行、掘削、境界、越境
- 再建築や建替えの条件
- 火災保険と孤独死関連の補償
- 正式な不動産査定と売却手取り額
- 保有した場合の5年・10年収支
- 弟の収入、債務、健康、生活能力
- 弟の転居先と生活費
- 相続放棄等の期限
まとめ
老朽化した賃貸住宅の相続では、不動産価格だけを見て判断してはいけません。
借入れ、敷金、修繕、入居者、孤独死、境界、弟の住居が一つにつながっています。
私は、まず建物と人の安全を確保します。
次に、財産と債務を調べ、相続の選択期限を守ります。
その後、保有、売却、放棄を数字と生活への影響で比較します。
弟の住まいを守ることと、弟へ建物を与えることは同じではありません。
母の遺言を尊重することと、相談者が一生負担を背負うことも同じではありません。
この問題で必要なのは、結論を急ぐことではなく、後から取り返せない事故、処分、資金流出を先に防ぐことです。
本記事は、架空の事例をもとにした一般的な実務検討用情報です。相続の承認・放棄、自筆証書遺言、賃貸借契約、敷金、残置物、建物の安全、私道・境界、相続税等の取扱いは、具体的な契約内容、財産・債務、実際に行った管理行為によって異なります。



