「父が亡くなった後、タイにコンドミニアムと会社があることが分かりました。現地の女性から、税金や従業員給与のために300万円を送ってほしいと言われています。すぐ送金しなければ財産を失うのでしょうか」
海外に不動産、銀行口座、会社、投資などを残した人が亡くなると、相続人は強い焦りを感じます。
現地からは、「支払期限が迫っている」「すぐ名義を変えなければ権利を失う」「安くても今売った方がよい」といった連絡が届くことがあります。
しかし私は、国際相続で最初にすべきなのは、海外へ送金することでも、急いで現地へ渡航することでもないと考えます。
いま最優先すべきなのは、送金、売却、口座操作を一度止め、誰の財産で、誰の債務で、誰に権限があるのかを公的資料で確認することです。
相談事例
相談者は50歳の男性です。
父が1か月前に亡くなり、母、相談者、妹が相続人となりました。
父は退職後、日本とタイを行き来していました。日本には母が暮らす実家、預貯金、証券があります。
一方、父の書斎からは、タイのコンドミニアム購入契約書、現地法人の株券らしい書類、海外銀行カード、タイ語の遺言書らしい書面が見つかりました。
さらに、タイ人の女性から、会社の給与、税金、コンドミニアム管理費などとして300万円を送るよう求められています。
振込先は、会社や管理組合の口座ではなく、その女性個人の口座です。
父の日本の口座からは、過去3年間で約2,400万円が海外へ送金されています。
それが会社への出資なのか、貸付けなのか、生活費なのか、女性への贈与なのかは分かっていません。
日本の実家には約1,800万円の担保借入れがあり、軽度認知症の母が一人で暮らしています。
この問題の本質
私は、この問題の本質は、「現地女性を信用するか疑うか」ではないと考えます。
本当に整理すべきなのは、次の区分です。
- 父個人が所有する海外不動産
- 父個人の海外銀行口座
- 父が保有していた現地法人の株式
- 現地法人が所有する預金、車両、設備
- 父個人の借金や保証債務
- 会社自身が負っている税金や給与債務
- 現地女性に与えられた管理・代理権限
- 日本とタイで作られた遺言の関係
この区分をせずに「海外資産はいくらあるか」と考えると、会社の財産を父個人の財産と誤解したり、会社の債務を相続人が当然に払うと思い込んだりします。
よくある失敗1|請求された金額を先に送る
現地女性は、給与、税金、管理費、医療費などとして300万円を求めています。
本当に支払期限が迫っている費用が含まれている可能性はあります。
しかし、請求書や税務通知が十分に提示されず、振込先が個人口座である以上、そのまま送金するのは危険です。
私なら、支払いを全面的に拒絶するのではなく、項目ごとに確認します。
- 誰が支払義務を負っているのか
- 父個人の債務か、会社の債務か
- 支払期限はいつか
- 払わない場合、どの権利を失うのか
- 正規の振込先はどこか
- 現地女性に受領権限があるか
- 領収書が発行されるか
緊急性が確認できた場合でも、可能な限り、管理組合、税務当局、病院、従業員、会社口座など、正当な受取先へ直接支払います。
よくある失敗2|現地法人の株式と会社財産を混同する
父が現地法人の株式を49%保有していたとしても、会社の車、預金、コンドミニアムの49%を直接相続できるわけではありません。
相続の対象になるのは、まず父が保有していた株式や会社への貸付金などです。
会社の財産は会社自身のものです。
また、売上が大きく見えても、未払給与、税金、借入れ、保証、許認可上の問題があれば、株式価値がほとんどない可能性もあります。
私なら、次の資料を確認します。
- 法人登記
- 株主名簿
- 役員名簿
- 定款
- 決算書
- 税務申告書
- 会社口座
- 父の個人保証
- 父から会社への貸付記録
よくある失敗3|日本の遺言だけで海外財産を動かす
父は日本で公正証書遺言を作っており、相談者が遺言執行者に指定されています。
しかし、その遺言には海外財産について具体的な記載がありません。
タイでは、別の遺言書らしい書面も見つかっています。
日本で遺言執行者に指定されているからといって、タイの不動産、銀行、法人へ当然に指示できるとは限りません。
反対に、タイの遺言書らしい写しがあるからといって、現地女性へ会社や不動産をすべて渡してよいともいえません。
私なら、両方の遺言について、原本、作成日、署名、証人、対象財産、撤回の有無を確認します。
重要なのは、書類の題名ではなく、どの財産について、誰に、どの権利を与えたのかです。
海外の財産だけ相続放棄することはできない
相談者は、タイの会社や借金だけを放棄し、日本の実家と預金を相続したいと考えています。
しかし、相続放棄は、不要な財産や債務だけを選んで外す制度ではありません。
財産も債務も含め、相続人としての地位を離れる判断です。
海外資産の調査には時間がかかります。
そのため私は、調査が終わるまで待つのではなく、相続を承認するか放棄するかを考える期限を先に管理します。
期限が迫り、財産・債務の全体が分からない場合には、判断期間を確保する方法も検討します。
母の実家を守るために、借金をすぐ完済すべきか
日本の実家には約1,800万円の担保借入れがあります。
母が住み続けるため、国内預金から先に完済したいという考えには合理性があります。
しかし、海外に父個人の保証債務や未払税金があった場合、国内預金を先に大きく減らすことで、後の対応が難しくなる可能性があります。
まず金融機関へ父の死亡を伝え、次の点を確認します。
- 次回返済日
- 返済猶予の可否
- 利息だけの支払いが可能か
- 担保実行までの手続
- 母が居住していることへの配慮
- 一括返済が必要となる条件
母の当面の居住を守りながら、完済するか、返済を続けるか、将来売却するかを比較します。
母に父の海外生活をどこまで伝えるか
母には軽度認知症があり、父の死亡を忘れることがあります。
海外の女性や会社の話を一度に伝えれば、強く混乱する可能性があります。
一方で、母は相続人です。
何も説明せずに書類へ署名させることもできません。
私は、父の私生活の詳細と、相続判断に必要な事実を分けるべきだと考えます。
まず伝えるべきなのは、次の内容です。
- 父が亡くなったこと
- 海外にも財産や債務がある可能性
- 実家に借入れがあること
- 直ちに家を出る必要はないこと
- 一人で書類へ署名しないこと
現地女性との個人的関係まで、最初から詳しく伝える必要があるとは限りません。
調査のために、すぐ現地へ行く必要はない
相談者は、2週間仕事を休み、タイへ行くよう勧められています。
しかし、現地へ行くだけで正しい情報が得られるとは限りません。
面前で急いで書類へ署名させられたり、偏った説明を受けたりする危険もあります。
私なら、調査を段階化します。
- 日本国内の書類と送金記録を整理する
- 現地の公的な不動産・法人資料を取得する
- 管理組合、銀行、法人へ正式に照会する
- 独立した不動産査定を取る
- 必要な論点を整理した後に短期間渡航する
調査費用にも上限を設けます。
回収できる可能性の低い資産へ、相談者が仕事と家庭を犠牲にして無制限に費用をかけるべきではありません。
私ならどう考えるか
私なら、次の順番で対応します。
1.不可逆な行為を止める
現地への一括送金、コンドミニアム売却、株式譲渡、海外銀行へのログインを保留します。
2.証拠を保全する
スマートフォン、SIM、海外銀行カード、遺言書、契約書、送金明細、現地女性とのメッセージを保存します。
3.公的資料で権利を確認する
不動産名義、法人登記、株主、役員、税金、会社の存続状況を確認します。
4.期限だけは止めない
相続の判断期限、日本の借入れ、母の介護、相続税の準備を同時に進めます。
5.必要な保全費用だけ支払う
請求書、支払義務、振込先を確認し、権利を失う危険がある費用だけを正規の相手へ支払います。
6.回収可能性に応じて調査を続ける
財産価値より調査費や紛争費が大きくなる場合には、手続の縮小や処分も含めて判断します。
最善策
最善策は、海外への送金、売却、ログインを一度止めることです。
そのうえで、日本とタイの遺言、不動産登記、法人登記、銀行、債務、現地女性の委任状を、公的資料と原本で確認します。
同時に、次の待てない問題だけを暫定的に処理します。
- 相続を判断する期限
- 日本の実家の借入れ
- 母の住居と介護
- 海外資産の権利保全に必要な最低限の費用
いま最優先すべきなのは、海外財産を急いで回収することではありません。
家族が、誤った送金や売却によって選択肢を失わない状態を作ることです。
なぜ法律だけでは解決できないのか
法律上は、準拠法、相続人、遺言、会社株式、不動産、相続放棄、税金を整理できます。
しかし、実際には、言葉、距離、現地制度、情報の偏り、渡航費、介護、家族感情が重なります。
相談者が海外対応へ集中すれば、仕事と家庭が崩れる可能性があります。
妹が母の介護を一人で抱えれば、兄妹関係が悪化します。
母へ父の秘密を一度に伝えれば、生活状態が悪化するかもしれません。
重要なのは、すべての海外資産を取り戻すことではありません。
調査費、時間、家族への負担と、実際に回収できる財産を比較し、損失を広げないことです。
実務上のチェックポイント
- 父の国籍、住所、タイでの滞在実態
- 日本とタイの遺言原本
- コンドミニアムの正式な名義
- 抵当権、未払管理費、第三者利用
- 現地法人の登記、株主、役員
- 会社の決算、税金、未払給与
- 父の個人保証
- 海外銀行口座
- 父から会社への貸付金
- 過去2,400万円の送金内容
- 現地女性の委任状と権限
- 300万円の請求根拠と振込先
- 1,200万円の買取提案者の身元
- コンドミニアムの独立査定
- 日本の実家借入れ
- 母の判断能力と生活状況
- 妹の介護負担
- 相続判断の期限
- 国外財産を含む相続税
- 調査費用と渡航日数の上限
まとめ
海外財産を含む相続では、現地からの急な連絡に焦って判断すると危険です。
私は、まず送金、売却、口座操作を止めるべきだと考えます。
その後、不動産、会社株式、会社財産、海外口座、債務、遺言を分け、公的資料で確認します。
短期的には、権利と期限、母の住まいを守ります。
中期的には、財産価値と債務、調査費用を把握します。
長期的には、海外財産を承継するか、売却するか、清算するかを判断します。
重要なのは、海外資産があることに期待することでも、面倒だから手放すことでもありません。
根拠のない支払いと処分を止め、家族が後悔しない判断をできる状態を残すことです。
本記事は、架空の事例をもとにした一般的な実務検討用情報です。外国不動産、現地法人、海外銀行口座、遺言、相続の準拠法、現地税務、日本の相続税などの取扱いは、国籍、住所、契約、登記、現地法令によって異なります。



