「父は、障害のある弟が困らないように、賃貸アパートの家賃で生活させたいと考えていました。遺言ではアパートを私に相続させると書かれていますが、別に家族信託の契約書も見つかりました。私はどちらに従えばよいのでしょうか」
家族信託と遺言が両方残されている相続では、後から作られた書類だけを見て結論を出すことはできません。
特に、障害のある家族の生活保障を目的としている場合、問題は不動産の名義だけではありません。
家賃収入、借入返済、大規模修繕、本人の金銭管理、住まい、福祉サービス、きょうだいの負担まで含めて考える必要があります。
私は、この問題で最初にすべきなのは、アパートを相続登記することでも、売却することでもないと考えます。
まず確認すべきなのは、アパートが父の相続財産なのか、それともすでに信託財産となっていたのかという点です。
相談事例
相談者は49歳の女性です。
父が亡くなり、相談者と、知的障害のある45歳の弟が相続人となりました。
弟は、父名義の自宅で一人暮らしをしています。障害基礎年金と就労支援事業所の工賃を合わせても、月の生活費には不足があります。
父は生前、相談者に対して、「弟が困らないよう、アパートの家賃で生活させてほしい」と繰り返し話していました。
父の金庫からは、公正証書遺言と家族信託契約書の写しが見つかりました。
遺言には、アパートを相談者へ相続させ、自宅を弟へ相続させると書かれています。
一方、家族信託契約書には、アパートを信託財産とし、父の死亡後は弟を受益者とする内容が記載されています。
しかし、アパートの登記名義は父のままで、信託登記もありません。家賃も父個人の口座へ入金されていました。
相談者は、「遺言どおり私がアパートを相続し、弟へ家賃を渡せばよい」と考えています。
弟は、「父はアパートも自分のものだと言っていた」と反発しています。
この問題の本質
私は、この問題の本質は、家族信託と遺言のどちらが強いかという単純な比較ではないと考えます。
確認すべきなのは、次の点です。
- 家族信託契約が有効に成立していたか
- アパートが信託財産として具体的に特定されていたか
- 父の死亡時まで信託が存続していたか
- 遺言作成時に信託契約が考慮されていたか
- 借入れ、抵当権、修繕費を誰が負担するのか
- 弟の生活費をどの方法で安定して渡すのか
- 相談者が何年間、どの範囲まで管理するのか
書類の題名だけで判断すると、後から弟の権利、金融機関、入居者との関係で紛争が生じる可能性があります。
信託登記がないから、家族信託は無効なのか
家族信託の契約書があっても、不動産に信託登記がされていないケースがあります。
この場合、「登記がないから信託は存在しない」と直ちに決めるべきではありません。
契約が有効に締結され、対象となるアパートが具体的に特定されていれば、当事者間では信託が成立している可能性があります。
一方で、不動産について信託登記がされていなければ、第三者との関係では大きな問題が残ります。
さらに本件では、家賃が父個人の口座へ入り、管理会社も信託を知らず、父自身が賃貸借契約を更新していました。
これらは、契約書を作っただけで、実際の運用が始まっていなかった可能性を考える材料になります。
私なら、まず次の資料を確認します。
- 家族信託契約書の原本
- 信託財産目録
- 信託開始日
- 相談者が受託者として署名した記録
- 信託口口座の有無
- 信託登記をしなかった経緯
- 契約の変更・終了に関する条項
後から作られた遺言が、当然に優先するわけではない
公正証書遺言は、家族信託契約より約1年後に作成されています。
ただし、書類の日付が新しいという理由だけで、遺言が必ず優先するとは限りません。
仮にアパートが有効に信託されていたなら、父の死亡時に通常の相続財産ではなかった可能性があります。
その場合、遺言に「アパートを相談者へ相続させる」と書かれていても、その部分をそのまま実行できないことがあります。
反対に、信託が実行されていなければ、遺言による承継が中心になります。
重要なのは、どちらの書類が形式上新しいかではなく、父の死亡時点でアパートがどの財産に属していたかです。
アパートは本当に弟の生活を支えられるのか
アパートは全10室ですが、入居中は7室で、1室には家賃滞納があります。
年間の実際の家賃収入は約490万円です。
ここから、固定資産税、管理費、保険、修繕費、借入返済などを支払うと、表面的な残額は年間約160万円程度です。
しかし、今後5年以内に、外壁・屋根で約750万円、給排水管で約400万円の修繕が見込まれています。
私は、家賃収入をそのまま弟の生活費として渡す設計は危険だと考えます。
家賃は、次の順番で使う必要があります。
- 借入返済
- 固定資産税・保険・管理費
- 日常修繕
- 空室・滞納への備え
- 大規模修繕積立て
- 弟への生活費
- 管理を担う人の実費や報酬
「家賃収入があること」と、「毎月自由に渡せるお金があること」は同じではありません。
父の希望を守ることが、弟の利益になるとは限らない
父は、「アパートを売らず、弟の生活の柱にしてほしい」と考えていました。
その希望は尊重すべきです。
しかし、大規模修繕、空室、家賃滞納、借入れを抱えたまま保有し続けることで、かえって弟の生活が不安定になる可能性もあります。
相談者が管理できなくなった場合、次に誰が引き継ぐのかも決まっていません。
私なら、保有と売却を感情で決めず、少なくとも次のケースを比較します。
- 現在の入居率が続く場合
- 空室がさらに増えた場合
- 大規模修繕を実施する場合
- 管理会社へ全面委託する場合
- 現在売却する場合
- 弟が将来施設へ入る場合
父の希望を守ることと、物件を永久に保有することは同じではありません。
姉が無償で管理する仕組みは続かない
相談者には、夫と大学生、高校生の子どもがいます。
父の死亡後、弟の生活支援、福祉手続、アパート管理、相続資料の収集を一人で担っています。
親族からは、「姉なのだから弟の面倒を見るのは当然」と言われています。
しかし私は、家族の善意だけで、数十年に及ぶ財産管理を続けるべきではないと考えます。
管理を引き受けるなら、次の事項を明確にします。
- 管理する業務の範囲
- 弟へ渡す生活費
- 交通費・通信費などの実費
- 管理報酬
- 修繕を決める権限
- 売却を検討できる条件
- 相談者が辞任できる条件
- 相談者に事故があった場合の後継者
- 弟への収支報告方法
相談者の家庭が壊れるほどの負担を前提にした仕組みは、弟の生活保障としても不安定です。
弟の判断能力は、できないことだけで判断しない
弟は日常の買物や電車移動ができます。
一方で、高額契約や不動産収支を理解することは難しく、訪問販売や知人への貸付けによる被害も起きています。
このような場合、直ちにすべての財産管理能力がないと決めるのは適切ではありません。
必要なのは、どの行為なら自分で判断でき、どの行為には支援が必要かを分けることです。
私は、弟本人へ分かりやすい収支表を示し、本人の希望を確認したうえで、必要な範囲の支援方法を検討します。
本人の自由を守ることと、詐取や浪費を放置することは同じではありません。
待てない問題だけは、先に処理する
法的な帰属が決まるまで、すべてを停止できるわけではありません。
アパートでは漏水が発生し、高齢入居者の安否も懸念されています。借入返済日も到来します。
弟の生活費も不足しています。
私なら、最終的な名義や売却を決める前に、次の緊急対応を行います。
- 漏水の応急修理
- 高齢入居者の安否確認
- 火災・施設事故への対応
- 金融機関への死亡連絡
- 借入返済日の確認
- 弟の1~3か月分の生活費確保
- 家賃入出金の記録
最終判断を保留することと、管理を放置することは違います。
私ならどう考えるか
私なら、次の順番で整理します。
1.アパートの法的帰属を確定する
信託契約、財産目録、登記、信託口口座、遺言作成経緯を確認します。
2.緊急の管理だけを行う
入居者事故、漏水、借入返済、弟の生活費を暫定的に処理します。
3.実質収益を計算する
家賃から借入れ、修繕積立て、管理費を引き、弟へ継続的に渡せる金額を計算します。
4.弟の生活を短期・中期・長期で設計する
現在の自宅生活、将来の住替え、福祉サービス、医療・介護費まで含めて考えます。
5.相談者の負担上限を決める
管理期間、業務、報酬、辞任条件、後継者を明確にします。
6.保有・売却・管理委託を比較する
どの方法が父の希望に近いかではなく、どの方法が弟の生活を長期的に守れるかで判断します。
最善策
最善策は、信託契約と遺言の関係を確認し、アパートの法的帰属を確定することです。
その間、入居者の安全、借入返済、弟の当面の生活費だけを暫定的に守ります。
そして、収益性、大規模修繕、弟の判断能力、支援方法、相談者の管理負担を比較するまで、相続登記、売却、全面修繕、長期管理を確定しません。
いま最優先すべきなのは、父の書類をどちらか一方だけ採用することではありません。
弟の生活を守れる仕組みが、本当に実行可能かを確認することです。
なぜ法律だけでは解決できないのか
法律上は、信託財産か相続財産か、遺言の効力、借入れの承継、財産管理の権限を整理できます。
しかし、それだけでは弟の生活は安定しません。
アパートを取得しても、家賃が減り、修繕費が増えれば生活費は出せません。
相談者が管理を引き受けても、家庭との両立ができなければ長続きしません。
弟の意思を無視すれば、姉への不信感が強くなります。
重要なのは、父の希望を形式的に守ることではありません。
父が本当に守りたかった弟の生活を、現実に続けられる形へ置き換えることです。
実務上のチェックポイント
- 家族信託契約書の原本
- 信託財産目録
- 受託者の署名・承諾
- 信託の開始・終了条件
- 信託登記をしなかった理由
- 信託口口座の有無
- 公正証書遺言の作成経緯
- 遺言執行者が保有する資料
- 借入残高と抵当権
- 金融機関の債務承継条件
- 過去5年のアパート収支
- 空室・滞納状況
- 大規模修繕見積り
- 漏水・入居者事故
- 弟の月間生活費
- 弟の理解できる契約範囲
- 弟の住まいと福祉サービス
- 相談者が負担できる管理期間
- 管理報酬と実費
- 相談者に代わる後継管理者
まとめ
家族信託と遺言が食い違う相続では、遺言が新しいから、登記がないからという理由だけで結論を出してはいけません。
私は、まずアパートが信託財産なのか相続財産なのかを確認すべきだと考えます。
同時に、弟の当面の生活費、入居者の安全、借入返済という待てない問題を処理します。
短期的には、生活と事故を守ります。
中期的には、収益性、修繕、本人の支援方法を確認します。
長期的には、相談者が無理なく続けられる管理体制を作り、保有と売却を比較します。
重要なのは、アパートを残すこと自体ではありません。
弟の生活が、相談者の犠牲に依存せず続く仕組みを作ることです。
本記事は、架空の事例をもとにした一般的な実務検討用情報です。家族信託の成立、信託財産の範囲、遺言との関係、借入れの承継、財産管理制度の利用、税務上の取扱いは、契約原本、登記、金融機関との契約、本人の判断能力などによって異なります。



