「工場も自社株も、父から自由に使える財産としてもらったわけではありません。会社を守るために引き継いだのに、妹へ5,000万円も払う必要があるのでしょうか」
家業を承継した人が、父の死亡後に兄弟姉妹から遺留分を請求されることがあります。
この問題は、単に兄が多くもらい、妹が少なかったという話ではありません。
工場、土地、自社株式、会社の借入、個人保証、従業員の雇用、母の住まい、兄妹の介護負担までが複雑に絡みます。
私は、この問題で最初にすべきことは、請求を拒否することでも、急いでお金を払うことでもないと考えます。
最初に行うべきなのは、相続財産、過去の贈与、会社財産、個人財産、債務、家族の生活費を分け、正しい数字を作ることです。
相談事例
相談者は、父が創業した金属加工会社を継いだ54歳の長男です。
父は生前、相談者に工場敷地、自宅兼事務所、自社株式の70%、複数回の現金を贈与していました。
一方、父の死亡時には、預貯金、上場株式、賃貸アパート、会社への貸付金などが残っていました。
父の遺言では、母に賃貸アパートと預金2,000万円、妹に残りの預金と上場株式を取得させ、長男には死亡時の財産を与えない内容になっていました。
しかし妹は、「兄は生前に2億円近い財産を受け取っている」として、遺留分5,000万円を請求しました。
長男は、工場や株式は売却できる財産ではなく、妹へ現金を払えば会社が立ち行かなくなると考えています。
この問題の本質
私は、この問題の本質は、事業承継のために移された財産と、個人が自由に使える財産を、同じように扱ってしまうことにあると考えます。
工場敷地は会社の借入金の担保に入っています。
自宅兼事務所には母が住み、会社もその一部を使っています。
自社株式には市場性がなく、簡単には売却できません。
そのため、評価額が高くても、長男が自由に現金化できるとは限りません。
ただし、事業用財産だから当然に遺留分の対象外になるわけでもありません。
重要なのは、何を、いつ、どのような目的で受け取ったかを一つずつ整理することです。
よくある失敗1|会社を守るため、請求を全面的に拒否する
「妹は会社を継いでいないのだから、遺留分を請求する資格はない」と考えるのは危険です。
会社を継いだ長男が経営責任や個人保証を負っていても、妹の遺留分が当然に消えるわけではありません。
請求を無視すれば、妹は「兄が財産を隠し、独占している」と受け取ります。
その結果、訴訟や財産保全の手続に進み、会社や金融機関との関係にまで影響が広がる可能性があります。
内容証明が届いた場合は、請求額を認める必要はありませんが、調査中であることと、計算根拠を確認したいことは伝えるべきです。
よくある失敗2|早く終わらせるため、会社のお金で支払う
会社の預金は、長男個人の財産ではありません。
仕入代金、給与、社会保険料、借入返済、設備更新など、会社を維持するためのお金です。
遺留分を早く支払いたいからといって、会社資金をそのまま妹への支払いに使えば、会社の資金繰りを悪化させます。
場合によっては、税務や会社内部の手続でも新たな問題が生じます。
この問題は、会社の資金と長男個人の資金を完全に分けて考える必要があります。
よくある失敗3|妹の5,000万円という数字を前提に交渉する
遺留分の金額は、妹が提示した数字だけでは確定しません。
確認すべきなのは、次のような事項です。
- 父が死亡時に所有していた財産と債務
- 長男が受けた生前贈与の内容と時期
- 妹や母が遺言で取得する財産
- 工場、自宅、自社株式の適正な価値
- 会社に対する父の貸付金の回収可能性
- どの贈与が遺留分の計算に含まれるか
特に、生前贈与は贈与日が重要です。
5年前、10年前、15年前に行われた贈与を、すべて同じ扱いで現在価格により合計できるとは限りません。
私ならどう考えるか
私なら、最初に4種類の一覧表を作ります。
1.父の死亡時財産
預貯金、上場株式、賃貸アパート、会社への貸付金、未払医療費、税金などを整理します。
2.生前贈与
工場敷地、自宅、自社株式、現金について、贈与日、贈与時の価格、現在の価格、登記や申告の状況を記録します。
3.会社関係
会社借入、担保、個人保証、父から会社への貸付金、長男から会社への貸付金、設備投資の予定を分けます。
4.家族の生活
母の年金、預金、アパート収入、修繕費、介護費、現在の住まいを守る費用を確認します。
これらを混ぜると、「会社が借金を負っているから遺留分は払えない」「母に財産を残すから妹は我慢すべきだ」という感情的な議論になります。
まず、誰の財産で、誰の債務なのかを分けることが重要です。
低い給与や個人保証は、生前贈与から差し引けるのか
長男は、長年低い給与で働き、自分のお金を会社へ貸し、会社借入の個人保証も負っています。
これらは、事業承継の実態を説明する重要な事情です。
しかし、それだけで土地や株式の贈与額から当然に差し引けるとは限りません。
会社への貸付金は、長男が会社に対して持つ債権です。
個人保証は、現時点では将来負担が生じる可能性のある責任です。
土地や株式が低い給与の代わりだったと主張するには、父との合意、会社の記録、給与水準の資料などが必要です。
感覚的には報酬であっても、登記や税務上は贈与として処理されていることがあります。
母の住まいと老後資金を先に守る
母は自宅兼事務所に住み続けています。
父の遺言では賃貸アパートと預金を取得する予定ですが、アパートには大規模修繕が必要です。
資産額だけを見れば十分に見えても、修繕、空室、固定資産税、介護費を考えると、母の老後資金が不足する可能性があります。
遺留分の支払いのために自宅を担保に入れたり売却したりすれば、母の住まいにも影響します。
私は、まず母が今後必要とする生活費と住居費を計算し、兄妹間の支払いとは分けて確保すべきだと考えます。
また、母を兄妹の伝言役や仲裁役にしてはいけません。
最善策
最善策は、適正な遺留分額を確定した後に、会社を壊さない支払い方法を組み立てることです。
考えられる方法には、次のものがあります。
- 父の預貯金や上場株式で取得額を調整する
- 長男個人が一定期間の分割払いを行う
- 会社への貸付金の返済条件を調整する
- 事業に直接必要のない財産を換価する
- 会社資金とは分けて適切な資金調達を行う
- 支払時期について現実的な合意を作る
工場や自社株式の持分を妹に渡す方法は、現金を用意しなくてよいように見えます。
しかし、会社経営や担保設定、株主総会、将来の相続で兄妹の対立を長く残す危険があります。
目先の支払いを避けるために、将来の紛争を会社へ持ち込むべきではありません。
なぜ法律だけでは解決できないのか
法律上の遺留分額を計算するだけなら、財産評価と相続割合の問題です。
しかし、このケースには24人の従業員とその家族、母の住まい、妹の生活、長男の個人保証、次の世代への事業承継が関係しています。
長男には、会社を守ってきたという自負があります。
妹には、兄だけが父の財産を受け取ったという不公平感があります。
どちらか一方の感情を否定すると、金銭の問題が家族の尊厳をめぐる争いに変わります。
重要なのは、誰がより苦労したかを決めることではありません。
法律上支払うべき適正額を確認し、会社と家族が再建できる方法で解決することです。
実務上のチェックポイント
- 父の遺言書の全文
- 妹から届いた内容証明と到達日
- 父の死亡時財産と債務
- 生前贈与の内容、時期、目的
- 贈与契約書と贈与税申告書
- 工場と自宅の複数の評価資料
- 自社株式の評価
- 会社借入、担保、個人保証
- 父から会社への貸付金
- 長男から会社への貸付金
- 長男の給与と役員報酬
- 妹の介護負担と立替費用
- 母の生活費、住居費、介護費
- 賃貸アパートの修繕計画
- 相続税の申告期限
まとめ
家業を継いだ長男が多くの財産を受け取っていても、それがすべて自由に使える財産とは限りません。
一方、会社のために受け取った財産だからといって、妹の遺留分を無視することもできません。
私は、この問題で最優先すべきなのは、正しい数字を作ることだと考えます。
死亡時財産、生前贈与、会社の財産と債務、個人の財産と債務、母の生活費を分けます。
そのうえで適正な遺留分額を確認し、会社、従業員、母、妹、長男の生活を壊さない支払い方法を考えます。
いま最優先すべきなのは、勝つことではなく、被害を広げないことです。
重要なのは、誰が正しいかではなく、相続後も会社と家族の生活を守れるかです。
本記事は、架空の事例をもとにした一般的な実務検討用情報です。遺留分の算定、生前贈与の取扱い、財産評価、支払義務、相続税などの結論は、贈与日、遺言、契約書、会社資料、不動産評価などの個別事情によって異なります。



